ヴィリジアンとは何か──深緑の名を冠した銘酒の意図

─ Colorsシリーズの中でも“もっとも厚く、もっとも余韻が長い”一本
秋田の地で、独自の酒造りを貫く新政酒造。その人気シリーズの一角、「Colors(カラーズ)」には、すべての酒に“色の名前”が冠されている。
その中で「天鵞絨(ヴィリジアン)」は、唯一“質感”と“深み”を象徴する名を持ち、味わいの厚みと静かな余韻という面で、シリーズの中でも異彩を放つ存在だ。
一口で、静かに広がる味の密度。二口目で、芯のある苦みと渋みが余韻を引き締める。
しぼりたてでも充分に楽しめるが、寝かせることでその“緑”はより深みを増していく。
ここからは、この酒の立ち位置と意図、ネーミングに込められたメッセージを紐解いていこう。
シリーズ「Colors」とは?米と色で描く新政の設計思想
新政の「Colors」シリーズは、いわば“酒米と色の対応表現”とも呼べるコンセプトを持つ。
それぞれの作品は秋田県産の異なる酒米を使用し、その個性に最も合った色を名付けている。スペックとしては統一されており、すべて:
- 秋田県産米100%(米の種類は酒ごとに異なる)
- 精米歩合50%(扁平精米)
- 生酛造り
- 木桶仕込み
- 協会6号酵母(新政が発祥)
- 無濾過生原酒
という、“等条件下での米の個性比較”として設計されている。まさに、酒米を「色」として描く抽象画のようなシリーズだ。
Colorsの中には、爽やかな透明感が際立つ「亜麻猫(アマネコ/あま)」や、柔らかな酸が魅力の「生成(きなり)」などがあるが、
ヴィリジアンはその中でもとくに「厚みと深み」を宿す一本。設計思想の最終点に位置するような存在といえるだろう。
Viridian=天鵞絨(びろうど)が意味するもの
「Viridian(ヴィリジアン)」とは、絵画・美術分野で使われる“深緑”を意味する色名である。
単なるグリーンではなく、青みを含んだ静謐な緑。その佇まいにはどこか品格があり、沈黙の中に響くような余韻を感じさせる。
一方、和名である「天鵞絨(びろうど)」は、ビロード──すなわちベルベットのこと。
ここには、ただ色を表現するだけでなく、触感と質感にまで踏み込んだネーミングが込められている。
実際、この酒を口に含んだときの質感は、まさにビロード。
なめらかで厚みがあり、それでいて表面はどこかサラリとしたタッチを残す。
この「言葉にできないテクスチャ」を色名で想像させるセンスこそ、新政が造り出す酒の世界観の真骨頂だ。
四季の中の位置づけ──ヴィリジアンの「冬」的存在感
新政 Colorsシリーズは、明確な季節展開ではないものの、酒質の印象はそれぞれ四季になぞらえることができる。
その中で「ヴィリジアン」は間違いなく“冬”のポジションだ。
穏やかな立ち上がり、落ち着いた香り、そして味わいの中心に宿る密度と静けさ。
まるで雪原の中にじっとたたずむ深緑の林のように、寡黙だが確かな存在感を放つ。
搾りたてでも厚みを感じるが、数か月〜数年の熟成によってさらに旨味の層が重なり、他のColorsが持たない“後熟の余白”を持つ点もまた、この酒の冬らしさを際立たせる。
それは、新年の凜とした空気の中で静かに味わいたくなる一本であり、
日々に変化を求める飲み手にとって、時間をかけて付き合いたくなるパートナーのような存在だ。
美郷錦という米──秋田生まれの希少酒米が持つ可能性

─ 山田錦×美山錦から生まれた、秋田の“緑の魂”
新政「ヴィリジアン」を語るうえで、欠かせないキーワードが「美郷錦(みさとにしき)」だ。
この米は、全国的にはまだ知名度が高いとは言えないが、秋田県の地でじっくりと育てられてきた“地の米”であり、新政酒造が最も信頼を置く酒米のひとつでもある。
ヴィリジアンに込められた厚みと余韻。それは、まさにこの酒米のポテンシャルと蔵の哲学が一致した結果だといえる。
美郷錦の系譜と、新政における長年の扱い
美郷錦は、1990年代に秋田県で誕生した酒米で、山田錦×美山錦の交配によって生まれた品種である。
酒米の王と呼ばれる山田錦のふくよかさと、美山錦のクリーンな酸・キレを掛け合わせた、バランス型の優等生ともいえる性質を持つ。
ただし、美郷錦は栽培が非常に難しく、気候や土壌を選ぶ。そのため他県での採用例は少なく、秋田県内でも限定的な扱いだ。
それをあえて使い続け、さらにはヴィリジアンという象徴的な1本に据えたところに、新政の明確な意志がある。
新政では、かつて「No.6」のコンセプトモデルや一部の限定酒に使用されていたが、
美郷錦の“陰影ある味わい”に注目し、Colorsシリーズの「厚み担当」としてヴィリジアンに集中投下するようになった。
なぜ精米歩合50%(扁平)なのか──ポテンシャルの最大化
ヴィリジアンに使用される美郷錦は、精米歩合50%の“扁平精米”が施されている。
これは、新政が「最も米の芯と旨味が両立する」と位置づけているスペックであり、Colors全体でも共通する設計だ。
扁平精米とは、通常の球状ではなく米の中央軸を残すように“平たく”削る方法で、精米によるストレスを軽減しながらタンパク質などの不要な成分を効果的に除くことができる。
これにより、美郷錦がもつ本来の香味成分──つまり穀物由来の甘みと、軽い渋み、クリーミーな酸──が、より明瞭に表現される。
特筆すべきは、ヴィリジアンにおいてはこの“旨味の太さ”と“滑らかなタッチ”がきわめて高い次元で両立していること。
これは、米そのものの密度と、それをコントロールする醸造技術の高さが合わさった結果である。
栽培環境も進化──無農薬比率の上昇と味の向上
ヴィリジアンに使用される美郷錦は、近年ではその大部分が無農薬栽培に切り替わりつつある。
これは、新政酒造が推進する“サステナブルな酒造り”の一環でもあり、同時に味わいの透明感や質感向上にも大きく貢献している。
農薬を極力使わず、化学肥料も控えめに育てられた米は、よりピュアで素直な味を持ち、醪(もろみ)への影響も繊細になる。
その結果、口当たりはやわらかく、余韻には土壌や空気の記憶すら感じさせるような“静けさ”が残るのだ。
ヴィリジアンの飲み口にある、どこか「大地を思わせる滑らかさと深さ」は、まさにこの無農薬美郷錦による“土地との対話”の成果といえるだろう。
テイスティングレビュー|力強さと繊細さが共存する味わい

─ 杏・和梨・西瓜のニュアンスに包まれる“美しい密度”
ヴィリジアンを初めて口にしたとき、感じるのは言葉を選びたくなるような味の密度。
新政の酒に通底する繊細さ、6号酵母由来の軽やかな酸、木桶由来の複雑さ──
そのすべてが穏やかに共存しながら、どこか「重力」を感じさせる一本だ。
香りの設計──熟れた果実のような穏やかな第一印象
グラスを揺らせば、ふわりと立ち上るのは杏、和梨、西瓜の皮に近いニュアンス。
どれも過剰ではなく、あくまで穏やかに、しかし確かな存在感で鼻腔に届く。
フルーティーではあるが、いわゆる“華やか系”の香りとは異なる。
熟しすぎていない果実が持つ、控えめで潤んだ香りだ。
新政らしく、木桶由来のわずかな乳酸香がその下に支えとしてあり、香り全体に温度と立体感を与えている。
これは香りを“楽しむ”というより、“感じ取る”という表現のほうが近い。
まるで静かな庭園に咲く一輪の花のような、控えめな芳香がヴィリジアンの幕を開ける。
口に含むと立ち上がる、厚みと静かな複雑性
口当たりはとろみすら感じるようななめらかさ。
一瞬のうちに、穀物の柔らかな甘み、熟成に似たまろやかさ、そして芯の通った酸が、ゆるやかに口内に広がる。
その広がりはゆっくりで、派手さはない。だが、その中にある構成要素はきわめて高密度かつバランスが取れている。
特にこのロット(23CVD-03)は、口中に軽やかなガス感をわずかに残しており、それが甘みによる重さを支え、全体を引き締めている。
一言で言えば、“繊細な甘みの層の中に、渋みと酸味が点描のように散りばめられている”。
飲み手によって感じ取る部分が異なるような、開かれた複雑性を持っている。
余韻は静かに、しかし芯を残して長く続く
飲み終えた後に残るのは、音で言えば“ピアニッシモ”のような余韻。
しかしその静けさの中には、しっかりとした渋み、苦み、そして乳酸系のミネラル感が細く伸びている。
甘さがべたつかず、酸味が強すぎず、それでいてキレも早すぎない。
この絶妙な設計が、ヴィリジアンを「飲み疲れない深酒」にしている理由だろう。
さらに、温度帯を変えることでこの余韻は劇的に変化する。
10℃台ではスッと切れる。常温に近づくにつれて、余韻は丸く、長く、膨らみをもって続く。
「味が引く」ではなく、「味が消える」という感覚に近いかもしれない。
これは、「飲んだあとの“静けさ”までが設計されている」──そんな、詩的ですらある完成度だ。
どう飲むか、いつ飲むか──熟成と温度の妙
─ 今飲んでも、数年後でも。香味は変わり続ける芸術作品
ヴィリジアンの最大の魅力は、香味の設計が「一瞬」だけではなく「時間」にまで及んでいるという点だ。
この酒は、開栓直後の鮮やかさと、時間を経たあとの落ち着き、どちらも楽しめる。
さらに、“寝かせる”ことでさえ、あらかじめ想定されている。まるで芸術作品のように、「熟成」という時間軸を前提とした構造体になっているのだ。
冷酒で立つ酸、常温で開く旨味──温度帯で変化する表情
まず、飲用温度による香味の変化は、この酒の重要な特徴だ。
- 8〜12℃前後の冷酒では、シャープな酸と引き締まった果実味が立ち、まるで薄氷の下に閉じ込められた甘味を覗くような繊細な印象を受ける。
- 15〜20℃の常温付近では、米由来の旨味がじわりと開き、香りもふくよかに膨らむ。質感はさらに滑らかになり、酒そのものが“語りはじめる”温度帯だ。
- 30℃前後のぬる燗では、酸がやや控えめになり、渋みと苦味が丸みを帯びて融合。ここに至って、ヴィリジアンはようやく「冬の柔らかさ」をまとう。
このように、温度ごとにまったく異なる印象を与えるのは、香味の設計に厚みがある証拠でもある。
特に常温帯での完成度は高く、「冷やすのがもったいない」と感じるほど。
食事と合わせる際も、温度帯を調整することで相手の料理に呼応する表情を見せてくれる。
熟成ポテンシャルの高さ──アッシュやアースに並ぶ長期型
新政の酒の中でも、「熟成によってさらに昇華する」構造を持つものは限られている。
その代表格が「アッシュ(ASH)」「アース(EARTH)」であり、そして「ヴィリジアン」もまた、それらと並ぶ熟成適性を有する酒である。
搾りたて直後でも充分なバランスを持っているが、1年、2年と時間を重ねるごとに、
- 渋みは角が取れ、よりビロードのような舌触りに
- 酸はまろやかに溶け込み、厚みある旨味に昇華
- 香りは乳酸系からハチミツやドライフルーツ系へと深化
まさに“静かに熟していく果実”のように、時間がこの酒に奥行きを与えていく。
ワインの熟成に通じる構造を日本酒で体験できる数少ない銘柄。
それがヴィリジアンであり、「時間とともに寄り添う酒」としての価値がここにある。
どんなシーンで開けるべきか──静けさと集中を伴う時間に
ヴィリジアンは、決して“賑やかな食卓向き”の酒ではない。
笑い声や会話が飛び交う場よりも、少人数、あるいはひとりで、静かに過ごす時間にこそ開けてほしい。
たとえば:
- 書斎で読みかけの本を再開するとき
- お気に入りの音楽とともに夜を締めくくるとき
- 考えごとに区切りをつけたい夜
- 特別な人と、無言でも心が通じる時間を共有したいとき
ヴィリジアンの味は、飲み手の内面の静けさに呼応してくる。
そこには「会話のための酒」ではなく、「対話のための酒」としての美しさがある。
まとめ|「これが新政の現在地」──ヴィリジアンが伝える哲学
─ 新しい、そして本質的な“日本酒の深度”を感じる1本
「ヴィリジアン」は単なる季節限定酒でも、単なるColorsの一作でもない。
それは、新政酒造という思想の器が、今の時代にどんな形で呼吸しているかを伝える“メッセージ”そのものだ。
秋田の地で生まれた希少な酒米・美郷錦。
それを無農薬で育て、扁平精米で磨き、生酛で醸し、木桶で仕込み、6号酵母で発酵させる。
一見すれば「古くて地味」な要素の積み重ね。
しかし、そこから生まれる味は驚くほど洗練されていて、静謐で、心に深く届く。
派手ではない。わかりやすくもない。
けれど、この酒には“本当に良いもの”とは何かという問いへの、ひとつの答えがあるように思う。
すぐに感動を呼ぶのではなく、飲んだ人の記憶に静かに沈んでいき、
ふとした瞬間に「あの味はやっぱり特別だった」と思い返させてくれる。
ヴィリジアンは、そんな「遅れて響く余韻」を持った稀有な酒だ。
そしてそれこそが、今の新政が目指している“日本酒の姿”なのだろう。
- 表層的なスペック競争から離れ、
- 蔵、土、米、人の関係性を問い直し、
- 味わうとは何か、香りとは何か、そして飲むという行為の意味を探り続ける──
「これは、ただの新作ではない。これが“今の新政”だ」と胸を張って言える。
それが、天鵞絨(ヴィリジアン)という酒に込められた、ひとつの静かな誇りなのだと思う。
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